ハッタリと潰瘍性大腸炎

持病の潰瘍性大腸炎について語るブログ

入院生活の話①(潰瘍性大腸炎)

入院までの経緯は下の記事をご覧ください。
http://mikkabouzu.hatenadiary.com/entry/2017/07/26/195732


1日に15回前後の粘血便と強い腹痛、食欲不振で地方の総合病院を受診した結果、潰瘍性大腸炎劇症と診断され、即入院することになったお茶屋


主治医は65歳くらいの内科医とお茶屋と同じくらいの研修医でしたが、2人とも潰瘍性大腸炎を診察した経験はなく、
系列の大学病院の専門医に指示を仰ぎながら対応してくれていたのを覚えています。

おじいちゃん先生は意志の強そうな職人気質の人で、研修医は気の弱そうな青年でした。


入院する時に「2週間の絶食、1ヶ月の入院」との診断がなされました。
2週間も絶食出来るものか、と心配でしたが、栄養を点滴で補うため問題ないとのこと(そして絶食は2週間では済みませんでした)。

入院の手続きを済ませると、早速CV(中心静脈)を取りつけられ、
首に縫い付けた管から栄養を滴下する、この様なスタイルになりました。

(写真はイメージです)


滴下の速度も決まっていて、こんな機械でスピードを調整します。

トイレに行くにもレントゲンを撮るにも常にこれを押して歩くスタイルで、
タイヤの回転がとんでもなく悪いので押して歩くと力が入り、力が入ると首が痛むコンボだったのを覚えています。



入院して最初の治療は、王道ステロイド点滴でした。

何はともあれ炎症のある箇所を治しましょう、という作戦です。
しかし絶食しながら1週間続けたものの改善せず、それどころか「膵臓の数値が危険なところまで上がってる」と言われ、敢え無く中止。

8日目からプログラフ(タクロリムス)に移行。
プログラフは免疫抑制剤で、大腸を攻撃している自己免疫を弱めようという作戦です。
他の病気に感染しやすくなるけど、背に腹は変えられません。

このプログラフ継続期間にはいろいろ憂き目に遭い、、


気管支の分け目から漏れた空気が圧迫して、息をする度に痛んだり(縦隔気腫と言うそうです)、

貧血が進行して目眩、吐気がひどくトイレにも立てなくなったり、(輸血600ccで元気回復)

首に挿しっぱなしのCVから菌が入り、3日3晩39度の熱が出たり、(おじいちゃん先生休診のため処置してもらえず)

また、猛烈な胃の痛みに苦しみ、毎晩痛み止めを打ってもらっても眠れず、昼夜逆転の入院生活になったりし、


ああ、人生って孤独だなぁ

とか

生活保護の頃、病人にもっと優しく接すればよかったなぁ(横暴だったという訳ではない)

とか

前世で悪いことしたのかなぁ

とか真剣に考えて、ふさぎ込む日々でした。


1日に15回のトイレも回数は減らず、
プログラフを使い始めて10日経つ頃、おじいちゃん先生から

「他に有効な治療がないので、あと1週間で結果が出なければ大腸全摘しかない」

と告げられました。


これまで触れていませんでしたが、
お茶屋は中高大とスポーツを続け、体を動かすことが最大の生きがいだったので

大腸ない→スポーツできない→人生終了

目の前は真っ暗でした。


そこから1週間、入院開始から25日目、潰瘍性大腸炎の改善は見られませんでしたが、おじいちゃん先生はなぜか言葉を変え、別の免疫抑制剤、レミケードを提案。




全摘しかないと言ったじゃんか(・□・;)



と心の中でツッコミましたが、
主治医を敵にしたくないのと、全摘しなくて良いかも、という期待からこれを受け入れ、
検査を受け、問題がなければ翌週から投与開始ということになりました。


そしてその1週間後、飲み続けていたプログラフがようやく効果を発揮し、
トイレは8回程度、粘血便は血便へと解消していき、
入院して35日目、ついに絶食が解かれ、口から栄養を得られるようになりました!

待望の食事はこんなもの

お粥の上澄みと味噌汁の上澄み

ほぼ水やん、と思いましたが35日ぶりの食事は不思議と美味しく感じました。


このあと一分がゆ、三分がゆと徐々にステップアップするものの、腹痛、血便はなくならず、回復は停滞。

治療が思うように進まないことに加え、
高熱の処置をすぐにしてもらえなかったこと、レミケードという治療があるのに危うく全摘になりかけたことに対し、

この病院で治療を続けて大丈夫なのか、と心配が抑えきれなくなり、

入院開始から60日目に都内の大学病院に転院したのでした。



大学病院での入院生活について、また次回記載します。